2017(平成29)年度 第4回授業
「泣いて笑っての番組づくり25年」
講師 安保 華子先生
NHKプロデューサー
場所 12月2日(土)午後2時
鎌倉学園 星月ホール
(授業リポート)
なぜNHKに入ったのか
皆さんは大学生ですから、将来、何になりたいか、と考えている人は多いかと思います。今日は私がNHKに入ってどんな仕事をしてきたかをお話します。
私がNHKを目指したのは高校の放送委員会に入ってからです。朗読部門の兵庫県代表で全国大会に出るため渋谷の放送センターに行きました。その時、「私はNHKに縁があるかな」と思いこんでしまい、入社試験を受けて、昭和63年(1988年)にNHKに入りました。男女雇用機会均等法が施行されて3年目、女性がいなかった職場に女性社員が働き始めた年でした。
「男性に変われ」の電話に悔しい思い
ディレクターだけで135人採用されましたが、女性は9人で、私はすぐ神戸局初めての女性ディレクターとして配属されました。
職場に女性がいるのは珍しい時代で、外からの電話に出ると「男性に変わってくれ」と言われ「私も正社員なので私に言ってくれれば分かります」と答えると「ともかく男性に変わってくれ」と言われるなど悔しい思いをしました。
ディレクターは、ニュースの中に設けられた「今日の特集」コーナーなどで企画などをつくる仕事です。テーマを決め、デスクに提案し、オーケーが出たらカメラマン、音声照明スタッフたちと一緒にロケします。そしてロケした後に、必要な映像やインタビューを編集し、コメントや字幕スーパーの原稿を書いて、映像にスーパーを入れて放送するのです。
当時は、女性ディレクターがパンダのように珍しい存在でしたから、何かあると常に「女性の視点で」と言われ、戸惑ったり困ったりしていました。
初めての長期海外取材で中ソの国境に
25年間、番組制作にたずさわってきましたが、いろいろな失敗をしました。NHKに入って3年目の1991年に初めて長期海外取材をしました。神戸にある流通科学大学の学生たちが、中国とソ連(現在はロシア)の国境地帯で行われている「国境貿易」の調査に行くというので、同行取材したのです。
こちらのVTRをご覧ください。中国から観光船に乗ってソ連の街に着いた中国人たちの姿ですが、みな同じユニフォームのような服を着ています。これは商品で、袋に詰められなかった商品の衣服を2枚、3枚重ねて着ているのでした。
女性の1人が「私は6枚も重ね着している」と、自慢する感じでうれしそうに笑う姿を忘れられません。大学で中国語を学んだのに、うまく質問できず、もっと聞き出すことが出来たらよかったのにと、今でも残念に思っています。
緊張して原稿を飛ばしガタガタに
もう1つは1990年3月の真昼に尼崎で起きたスーパー「長崎屋」の火事で、従業員12人とお客さん3人、あわせて15人が亡くなった火災事故です。
誰かが事故で亡くなった場合、遺族には、その人が生きていたらどれだけの賃金収入があるかを計算して遺失利益と慰謝料が支払われる仕組みになっています。ところがパートの女性従業員の父親に取材した時、父親は「娘は看護師を目指して勉強していたのに、パートだった賃金をもとに計算するとすごく安い」と怒っていました。日航機の墜落事故の犠牲者の家族も「男性と女性で命の値段に格差があるのはおかしい」と訴えていました。その2つの問題を夜9時のニュースで特集として取り上げることになり、私が生出演することになったのです。
ほぼ徹夜で編集作業をして疲れ切っていた上に、初めての全国放送での生出演で、ものすごく緊張し、用意した原稿の一部をすっ飛ばしてガタガタになってしまいました。先輩ディレクターから「お前は何のために放送しているんだ。取材させてもらった遺族を傷つけることになる」と、ものすごく怒られました。
放送を出すということは、やり直しはききません。この経験は取材させてもらった人の協力に応えることの意味をかみしめる、私にとって大事な経験となりました。
「アジアの古都物語」で北京の路地に“潜入”
神戸局で4年、東京に戻ってからはクローズアップ現代、NHKスペシャルなどいくつかのドキュメンタリー番組の制作にかかわった後、2000年に大阪局に異動し、シリーズ「アジア古都物語」を制作することになりました。
北京、インドのベナレス、インドネシアのジョグジャカルタ、ネパールのカトマンズ、トルコのイスファハン、京都の6都市を舞台に、アジアのさまざまな歴史ある都市の知られざる物語を探っていくというのがテーマでした。
私は1回目の北京を担当することになりました。北京の街には、皇帝の住む皇宮の周りを何重にも囲む路地=中国語では「胡同」=があり、その路地に暮らす人たちの営みを通じて古都の伝統、文化を描く、というのが狙いでした。
2008年には北京オリンピックがあり、整備のため胡同が取り壊されるという問題もあり、取材に大変、苦労しました。
ラストエンペラーが愛した闘コオロギ
取材は、現地に詳しい人にコーディネータ―となってもらい、話題となる人物などを探してもらうのですが、なかなか思うようないい話が出てこない。そのため、私自身も毎朝5時ころホテルを出て、1300もある胡同をキョロキョロ、フラフラしながらうろつき、ネタを探しました。
そうすると皇帝の奥さんである西太后が好きだった麻豆腐や豆汁を今も売り歩く行商の王さんや、皇帝に仕えていた軍人がつくったのが始まりという鳩笛の話題が見つかってきたのです。ちょっと、その映像を見てみましょう。
道端で散髪したり、鶏や段ボールを運んでいたり、洗濯物を干したりする風景が出てきます。ラストエンペラーの溥儀が愛したと言われる、コオロギを闘わせる闘コオロギや、皇帝の末裔なども紹介することができました。
本に載っていないことを自分の足や目で探して記録に残すというのが面白く、自分にとっては思い出のある番組です。
2020年の東京オリンピックに向けて、ビフォー・アフターを見られるのは皆さんの特権です。貴重な時間なので、時間も場も大事にしてください。
(休憩)
「僕は、君の彼氏ではない」上司の言葉が転機に
私の家族は夫と高校3年生と中学1年生の娘2人です。北京に行っていた時は、その前の年に上の娘が生まれ、夫と母に頼んで出張しました。初めての女性ディレクターと言われ、育児をしながら働く点でも非常に珍しい少数派だったので、いろんなところで壁にゴンゴン頭を打ちながら過ごしてきました。
皆さんは大学生なので、少し難しく感じるかもしれませんが聞いてください。子どもを産んで職場復帰した当時、私の職場には時短勤務制度がありませんでした。1日の労働時間は休憩1時間を入れて8.5時間ですが、1時間減らして7.5時間などにする仕組みが時短勤務です。
当時は、その仕組みが整っていなかったので、仕事と育児のバランスは自分でつくるしかありませんでした。上司も理解していないので「早く帰っていいよ」とは言ってくれますが、制作スケジュールは出産前と同じです。
母が保育園の送り迎えをやっていましたが、体調が悪くなったため、ベビーシッターに頼んだりしました。そんな時、上司から「3週間、東京に出張してくれ」と言われ、3週間も家を離れることは大変だと思い、「2回に分けるか、短縮してもらえませんか?」と、やんわり上司に言いました。そしたら上司は「僕は、君の彼氏でないから、君がどうしたいかなんてわからないよ」と言われたんです。その言葉を受けて「そうか、上司は彼氏じゃないんだから、自分でこうしたいと、はっきり言わなければダメなんだ」と分かりました。それまでは何か言われるとウジウジしていたんですが、これが転機になって、道がないなら自分でつくればいいやという気持ちが強くなりました。
これから皆さんは社会に出て働きますが、制度は変わるし、変えていける、変えていく力に皆さん自身がなっていただけたらと思っています。
NHKスペシャル「こども輝けいのち」
子育てをしながらディレクター、プロデューサーとして番組制作にかかわる中、大変な事もありますが、「子どもっておもしろいなあ」と思い、子どもの可能性、子どもの力そのものを伝える番組をつくりたいと思っていたとき、NHKスペシャル「こども輝けいのち」というシリーズの全国提案募集がありました。「1年間、ロケしたいところを提案してほしい」という提案募集が来て、自分の子供も保育園に通っていたので、大阪の熊取町にある「アトム共同保育所」を提案したら、それが通ったのです。
「アトム共同保育所」のモットーの1つは「子ども同士のけんかは止めない」でした。けんかやぶつかり合いのなかから子どもたちは、自分や相手を知って、成長していくという考えから、危険がないかどうかは見守りながらもぶつかり合いを大事にしていました。
通常の番組は、ある程度主人公を決めて取り掛かるのですが、1年間ロケすることだけは決まったものの、あとは成り行き任せ。5歳児のクラスで1年間の長期ロケを始めました。その映像を見てみましょう。
取材で自分の子育ても変わった
この子たちはもう20歳になりました。最初の3か月はカメラマン・音声さんと一緒に毎日のようにロケをしていましたが、カメラマンは他の仕事もあるため、運動会など大きな行事がある日程に合わせてロケにきてもらい、それ以外は私がデジカムを持参するという形になりました。
この男の子同士のけんかは、そんなときに起きたのです。何かあるかもしれないと私がカメラを持って行ったら、けんかが始まっていました。
けんかをした2人は互いに距離を取りながら沈黙したままです。しかし少しづつ距離を縮めていくのをずっと撮り続けて、最後に言葉を交わすところまで1時間近くかかりました。けんかすると、たいていは大人に「ごめんね」と言わされて終わりになり、「私が悪いわけではないのに」と思ったりするのが普通ですよね?しかしアトム共同保育所では、それを当事者である子ども同士にとことん考えさせるのです。気持ちをぶつけ合うことを大切にしている場面を見ていると、自分自身の気持ちを問う、本音を改めて再認識させられる機会になり、自分はどう生きていくかという部分でも影響を与えてもらった場所でした。
それまでは、子どもをほったらかしてロケに行ったりしながら、いいお母さんに見られたいという気持ちもあって、しんどいのに一生懸命、ご飯をつくったにもかかわらず、子どもたちに「あんまりおいしくない」と言われて、泣きながら私1人で食べたりすることもあったのです。しかし、このロケから戻ってからは、格好つけたり、我慢したりすることが減りました。
自分自身に問うことを大切に
「こども輝けいのち」を放送したのは14年前の2003年ですが、実はずっと気になっていたことがありました。5歳児が18人いるクラスで、ジャングルジムで遊んだりしているときに仲間外れにされていた女の子がいたんです。その子は足が速いのが認められたり、自分の悲しい気持ちを伝えたりすることで、みんなから受け入れられていく姿が放映されたのですが、放送後、いじめられたりしてはいないかと、気になっていました。
今年の3月、当時5歳児だった子どもたちの成人を祝う会に参加したら、大学生になった彼女と再会できました。ホッとしたと同時に、自分のなかでようやくピリオドを打つことができました。
皆さんが、これからどんな道を歩んでいくかは、皆さんしだいです。何をやりたいかを自分自身に問うことは非常に大事なことで、失敗したときに、それが力になるんですね。頭をぶつけて痛かったり、悲しかったりしますが、自分のことをごまかさずに、進んでほしいと思います。
◇ 質問コーナー ◇
Q.4年生 番組づくりで1番思い出に残ったことは何ですか。
安保先生 アトム共同保育所を取材したときのことです。こどもたちの自然な姿を撮るため、いじめられている場面を見ても、「やめなさい」とは言えない。でも少しづつ変わっていく、その子どもの力をかんじさせられました。
Q.4年生 先生の1番好きな番組は何ですか。
安保先生 言いづらいですが、「イッテQ」です。あそこまで芸人さんたちが吹っ切れて、あの番組を大切にして頑張っているのがすごい。
Q.4年生 番組をつくっていて1番苦労したのは何ですか。
安保先生 北京に行ったのが1番しんどかった。日本だと自分の思うように仕事ができますが、中国ではリサーチする人、コーディネーターの人たちを通して仕事をしなければならず、その壁を破るのが難しかったです。
Q.6年生 1つの番組に何人ぐらいのカメラマンがいるんですか。
安保先生 朝の「おはよう日本」のスタジオでは4人で、5台か6台のカメラを動かしています。VTRのカメラマンは基本的に1人です。高校野球などは10人以上のカメラマンが出動します。
Q.4年生 1番しんどかったと思ったときはありますか。
安保先生 神戸局に入った1番最初です。一生懸命やっても、うまくいかないことがすごく多いし、怒られるし、「お前バカじゃないの」と言われて。そのころは若かったからスウィーツをバカ食いしてました。最近は嫌なことがあると、お酒飲んで寝ます。
Q.5年生 小さい頃は何になりたかったですか。
安保先生 お菓子屋さんとかケーキ屋さんと言ってました。自分で好きなケーキを作って食べて、というイメージでした。
Q.4年生 1番取りやすかった番組は何ですか。
安保先生 やりやすい、と言うより、自分が楽をした番組はありました。東京湾をテーマにした番組です。普通、ディレクターはインタビューしたり、その人がどんな人かわかるように努力しますが、東京湾の場合は、相手が魚なので、インタビューの仕事はない。潜水カメラマンに「頑張って」と励ますのが仕事でした。(了)
(文責・横川和夫、写真・仲島孝、中村和男)