子ども大学かまくら 第4回授業(2013年3月9日)
「鶴岡八幡宮のふしぎなヒミツ」
講師 伊藤一美先生(鎌倉考古学研究所理事)
●鎌倉殺人事件を目撃していたイチョウの木
鶴岡八幡宮の不思議なヒミツについてお話しします。鶴岡八幡宮は、2年前の3月に暴風雨で倒れた樹齢800年という古いイチョウの木で注目されました。実は倒れる直前の姿を私は見ました。たまたま風の吹く前の日に八幡宮に用事があって出かけ、風がヒューと吹いている中で、なんとなくイチョウの木が苦しそうにしているのを感じました。翌日の新聞を見てびっくり、命が尽きたんでしょうか。
800年前にイチョウの木の前で殺人事件「鶴岡殺人事件」があったのです。源実朝(さねとも)が同じ一門の公暁(くぎょう)というお坊さんに殺されたのです。イチョウの木の陰に隠れていたと言われていますが、800年前のイチョウの木はもっと細くて、人間の体のほうが太かったかもしれません。
●源氏を守る神様の家
みなさんのところにあるチェックシートで鶴岡八幡宮の不思議なヒミツに迫っていきましょう。
最初の質問です。八幡宮とはなんでしょうか。手を挙げてもらおうかな。そう。正解は源氏の神様の家です。源氏という名前の大もとをたどっていくと大きな勢力をもった武士の一族、その一門に源(みなもと)という名字を持った人がいました。源義経(よしつね)とか源頼朝(よりとも)など大変有力な武士の家です。ですから源氏(げんじ)を守る神様の家というのが正解です。
●昔はお寺だった八幡宮
しかし本当にそうだったのでしょうか。ここで疑ってみてください。資料の6にある塔を見てください。
昔の八幡宮にはこの塔がありましたが、いまはありません。13の資料には、鳥居(とりい)の写真があります。この鳥居があるのはお宮さんです。この塔はお宮さんにはありません。昔の八幡宮には塔はあったけれど今はない。ということは、八幡宮は昔はお寺だったのです。正しくは「鶴岡八幡宮寺」といいました。ところが明治の初めに政府の方針によって、塔は取り壊されてしまったのです。それで八幡宮寺は、そのときからお寺ではなく神社になってしまいました。これも今の八幡宮の歴史にとっても大事なところです。
●今は神主(かんぬし)、巫女(みこ)さんがおつとめ
二番目の質問は、おつとめするのはどのような人たちですか。「株式会社」「お坊さん」「神主(かんぬし)・巫女さん」。昔はお坊さんもいましたが、現在は神主・巫女さんが正解です。ただ、役職がいくつかありますので、おもな方のみあげておきます。つまり神様にお仕えし、仕事をする人が神主さんです。巫女さんは、お茶、言葉遣(づかい)、あいさつの仕方、電話のかけ方などの行儀(ぎょうぎ)作法から、神様にお仕えする時の言葉まですべて教わります。大きくなったら巫女さんや神主さんになってみたいという人はチャレンジしてみてください。
3番目の質問、鶴岡八幡宮のご利益(りえき)はなんですか。「命が伸びる」「勉強ができるようになる」「みんなが仲良くできる」。全てが正解です。これは問題になりませんでしたね。
●ハトは神様のおつかい
次は建物の不思議に入ります。鳥居はなんでしょうか。「神様の入り口」「鳥がとまるところ」「見晴(みはらし)台」。
鳥居に腰かけて「おお、絶景(ぜっけい)かな」とやったら神様にしかられるかもしれないね。鳥居という言葉は、鳥がいるところですね、鳥は、神様の「おつかい」なんです。だから鳥がとまるところでも間違いではありません。いつも鳥は鳥居の上を飛びますね。中を通る鳥もいます。でも鳥居は人が通るのではなく、神様が通る入口、道でもあるんです。神様の入り口を使わさせてもらっているのが私たち人間です。
資料10にある写真のマークのなかにある動物がいます。なんでしょうか。そう、「ハト」ですね、八幡宮の「八」の字はハトでえがかれていますね。ハトは神様のおつかいなのです。
●北条政子の安産(あんざん)を祈願してつくった段葛(だんかずら)
こんどは参道の不思議なヒミツです。参道の真ん中の細い道は何というのでしょうか。「若宮大路」「自動車専用道路」「段葛」。手をあげて答えてもらおうかな。そう「段葛」が正解です。若宮大路は海岸の浜に向かって続いていますが、その真ん中の細い道が段葛です。源頼朝の奥さんである北条政子は赤ちゃんが元気で生まれるようにという願いを込めて道をつくらせました。そして夫の頼朝以下、たくさんの武士たちが石を一つづつ積み上げて、きれいにしたのが段葛です。ですから別名、置石(おきいし)とも言われています。今でも置石自治会(じちかい)という名前でその名が残っています。
●段葛は海岸に進むにつれて広くなる
13の写真を見てください。この鳥居は浜の鳥居です。一番海に近いところ、今の鎌倉市の体育館に近い所にある鳥居です。広いです。7の資料に鶴岡八幡宮という写真があります。置石という段葛の道は海岸に近づくにつれて、だんだん広くなっていきます。警察署の前の段葛が、八幡宮に近づくにつれて、どうなっていくか、一度調べてみてください。手をつないでいたら、道の幅が違っていきます。ここで休憩しましょう。
休憩中に分かったのですが、実際に段葛の道の幅をはかった人がいるんですね。その体験を発表してもらいます。
「みんなで段葛をはかってみようと巻き尺を使って図りました。海の方が広くで、神社の方が狭いことがわかりました」。
実際に巻き尺を使ってはかった人がいるのは、すばらしいことです。歴史を知るということは、自分で確かめることをいうのです。拍手(はくしゅ)をおくります。
●源氏の勝利を願ってつくった「源平の池」
八幡宮には不思議な池が2つあります。なぜ「源平の池」というのでしょうか。
それは源氏が勝つように願ってつくった池です。この2つの池に島はいくつあるでしょうか。チェックするために3と4の資料がありますので、さがして確かめてみてください。
島はあわせて7つですね。向かって右側が源氏池で島は3つ、左側の平家池は島が4つ。3(さん)は産まれることを意味します。源氏の子孫ががどんどん産まれ、栄えるように、そして4は死につながる。よい政治のできない武士は滅びるようにという願いが島の数に込められているのです。
しかし3と4をたすと7、つまりラッキーセブンになり、今はお互いに攻め合うのではなく、力を合わせて、ラッキーセブンでいこう、と考えています。それは鶴岡八幡宮が現代でも栄えている理由なのです。敵味方を乗り越えてラッキーセブンでいこうという意味があります。
●神様が真ん中を通る太鼓橋(たいこばし)
資料3は鶴岡八幡宮の江戸時代(えどじだい)にえがかれた絵図です。2番目の鳥居が、今では鎌倉警察署の前にありますが、昔はもう少し海側にありました。鶴岡八幡宮のほうに進んでいくと大きな鳥居が見えます。ここから先は神社の境内(けいだい)ですから、勝手に入ってはいけませんよと書いてあります。太鼓橋が見えますね。皆さんはこの橋は渡ることはできません。
昔、ここを渡ろうとして落ちてけがをした人がいるので通行止めにしました。この橋は本来は神様が通る橋なので、真ん中を通ってはいけないのです。中央を避けて、右か左を通りましょうというのが約束事です。その橋を渡ったら源平の池に出ますね。さらに進むと左右に石垣が通じているのがわかりますか。いまははありません。
そこから先は内陣(ないじん)といって、いろいろな建物があります。真ん中の門をくぐって境内に入ります。そうすると先ほど、見ていただいたクリマスのツリーのよう塔が建っていました。今はありません。真ん中に小さな家があります。階段を上っていくと、イチョウの木があります。
●義経に思いをかけた静御前が躍った舞殿
3のプリントの塔の近くにあるのが舞殿(まいでん)です。京都の女性で踊りを仕事としていた静御前(しずかごぜん)という人が、源義経のことを胸に秘めながら踊ったのです。舞殿で踊っている写真は10です。巫女さんが鈴をもって踊っていますね。毎年、8月9日に巫女さんがここで踊ります。
『吾妻鏡』(あずまかがみ)という、鎌倉幕府(かまくらばくふ)が作った本に、静御前の有名な歌が記録として残っています。「義経に会いたい、会いたい」と踊ったのです。実はここだけの話ですけど、私の先輩がこの舞殿で夜中に踊ったんです。守衛さんに注意をうけました。みなさんはそのようなことをしてはいけませんよ。
●1266年につくられた音楽の神様・弁天様
神様の不思議に入ります。若宮に祭っているのはだれでしょう。実は色々な神様、霊を祭っているのです。
10の資料の右上に変わった格好をした人がいます。だれでしょうか。正解は、音楽の神さまである弁天様です。将来、ミュージシャンを目指す人はお参りしてください。
日本に昔からある絃(げん)が三本ある楽器、くだものの枇杷(びわ)の形をしているビワを抱えているのですが、今はビワはありません。JR東逗子駅、京浜急行の神武寺駅(じんむじえき)で降りると神武寺があります。その弁天様の像をつくらせた中原光氏(なかはらのみつうじ)という人のお墓が残っています。1266年(文永3年)に八幡宮寺の「舞楽院(ぶがくいん)」におさめられたお像です。
●残っている源頼朝の直筆のサイン
資料11の絵は何でしょうか。紙で作ったものですね。「人形(ひとがた)」といいます。左は車のかたち、右は人のかたちをしていますね。これは皆さんの使っている車で、事故を起こさないようにというお守りです。神様に無事であるようにお願いしてお祈りをする。そして神様から守ってもらう。お祈りをささげ最後は煙にして神様にお伝えします。あわせて神さまに「おそなえもの」もささげます。
12をみてください。鶴岡八幡宮に残されている重要な史料です。あの有名な源頼朝が書いた直筆のサインが左奥の下にありますね。最初はあまり上手ではありませんでしたが、だんだん立派なサインを書けるようになりました。この文書はいま重要文化財となっています。
●歴史には正解はありません
最後の質問です。1192年(建久3年)に源頼朝は征夷(せいい)大将軍になりました。頼朝は鎌倉に幕府を開いたときに何を望んだのでしょうか。どんな気持ちで開いたのでしょうか。
昔、学校で教えていたとき「京都で生まれ、伊豆の国に長くいて、鎌倉に行けばもっとうまい魚が食えると思ったんではないか」と書いてくれた生徒がいました。先生は大きな○を付けました。歴史はどれが正解かはわかりません。大切なのは自分の考えを出せる。正解というのは歴史にはありません。なぜならば自分自身が歴史に向かって歩むからです。進むしかないのです。後戻りはできないのです。だから一生懸命に学んで、不思議だ、おかしいという問いをたくさん出していってください。正解は一つではありません。君たちの選択肢はたくさんあります。今日の授業はこれで終わります。 (文責・横川)