子ども大学かまくら 第1回授業
「なぜ鎌倉に幕府ができたか」
講師 三浦勝男先生(元鎌倉国宝館館長)
● ぜひ鎌倉を歩いてみてください
私は小学生のころから歴史が好きでした。他の科目はダメでしたが、社会科系統はいい点数でした。好きであれば簡単にできるかなあと思って、日本の歴史学を勉強しようと思いました。特に私の場合は、古文書学と言いまして、のたくった字で書いてある古文書を読むのが仕事だったんです。東京大学のなかに古代資料編さん所というのがあります。そこには立派な古文書がいっぱいあって、いい勉強する材料となっています。それを勉強しているうちに鎌倉に来ないかいうことで、昭和36年(1961年)鎌倉国宝館に来ました。
3、4年前に辞めましたが、勉強は続けています。
皆さん、せまい鎌倉ですから一生けん命歩いてみてください。私は昨日も朝比奈の切通しをゆっくり歩いて瑞泉寺にぬけてみたんです。歩いた時々によって感じが違いますから、一度歩いたからいいやという所はありません。鎌倉に興味のある人はぜひ鎌倉を歩いてみてください。
この間も京都を歩いてみましたが、歩くことでは鎌倉は日本一いい場所です。京都は歩くのに広すぎて、何度も行かなければなりません。鎌倉は少し区切りをつけて、今日は大船地区、次は山之内地域、雪ノ下、十二所というように計画をたてて過ごすことができる、そういう点では鎌倉はいいところだと思います。
● 鎌倉武士が鎌倉の都を生んだ
これから鎌倉の歴史などをお話ししてみたいと思います。
関東の人間にとっては、お公家(くげ)さんを中心とする京都の歴史文化がつちかった人々の性格は、とても理解できません。武士の、武家の土地、時には源氏を中心とする鎌倉の風土、風景、景色、気持ちは、いまだに京都では感じられません。京都と鎌倉は比較して話をするところではありません。京都は京都、鎌倉は鎌倉です。しかし武家の土地としての、あるいは源氏としての鎌倉をどういうふうに理解するかは大事だと思います。
鎌倉武士が鎌倉の都を生んだ。鎌倉武士とはどういう人たちなのか。どういう人たちが鎌倉の歴史をつくり、鎌倉の文化を育んだのか。チャンスがあったら、調べてみてください。難しいですが鎌倉の本当の歴史とか文化の意味を理解するには、そこに住んで感じ取ること、そして本を読んでいろいろ考えていくことがとても大事だと思います。
● 鎌倉の街づくりの基本は若宮大路
東京大学史料編さん所には関係する資料がまとまってあるんです。その中の一つに鎌倉の街づくりというのがあります。鎌倉の街づくりの基本は八幡宮を中心とする海から八幡宮まで一本の道が通っている若宮大路という大きな通りがあります。この道が中心となって、鎌倉の街づくりがなされている。京都の街づくりを真似てはいるんですけれど、せまい鎌倉で考えると、若宮大路は重要な道になっている。
若宮大路に対してJR横須賀線鎌倉駅の向こう側、市役所側に武蔵大路という道が一本通っています。また鎌倉の八幡宮のほうに向かって重要な道が若宮大路を中心として、その右、左に一本づつある。そしてそれを横切るように八幡宮の前の通りが一本ある。これは宝戒寺の前から寿福寺のほうに抜けていく横の道で一本区切られていますね。それから若宮大路には路の中央に段葛(だんかづら)という一段高い路が残っております。段葛は八幡宮前から由比ヶ浜まであったわけですが、だんだんとなくなって、今は駅の前辺りから八幡宮のまでと短くなりました。
● 鎌倉に居を構えた幕府将軍、源頼朝
鎌倉をこういう形につくった人はだれでしょうか。そう。源頼朝です。頼朝が鎌倉幕府の将軍として鎌倉に居を構え、幕府をつくりました。その頼朝が住んでいた場所は、頼朝の墓がある下のほう一帯と考えられています。
そして鶴岡八幡宮という若宮大路の突き当りにお宮が構えられました。その八幡宮が最初に祭られた神様の名前が若宮さんですから、そこに通ずる道であるため今も若宮大路と言っているわけです。
こうして鎌倉の町は八幡宮を中心とした道がつくられ、小町の町を通っているから小町大路と呼ばれているんです。鎌倉駅の市役所側のほうの道は建長寺の前を通って武蔵に通じているから、武蔵大路と呼んでいるわけです。それを横切るようにして八幡宮の前に通ずる道が横大路、真ん中で区切られた道があり、そして長谷観音、逗子のほうに行く道、そしてもう一本が鎌倉の海岸通りとおおざっぱに言うと、そういう道ができて、町が整備されていく、こういう形で歴史がつくられたわけです。
● 新しい宗教の浄土宗、禅宗が鎌倉に
このように鎌倉の道が出来上がっていくなかで、徐々にお寺も建てられていくわけです。
宗教的な流れでは天台宗、真言宗という宗派が古い寺の流れをくんでいます。ところが鎌倉は新しい都でしたから、それにふさわしいように当時の新しい宗教である浄土宗や禅宗が多くつくられていきました。特に浄土宗の場合は、本尊(ほんぞん)を阿弥陀(あみだ)さんと呼んで、何でも阿弥陀さんにお願いすれば願いはかなえてもらえるという教えですから、多くの人たちが簡単に信仰することができる。南無阿弥陀仏、南無はお願いしますという意味なんです。阿弥陀如来(にょらい)様、お願いします。それだけで、すべての願いがかなえられると教えられたものですから、浄土宗のお寺がはやりました。それが現在も多くのお寺があって、阿弥陀さんを安置していることになるわけです。
ところが一方では鎌倉時代も後半から終わりにかけて、北条時頼という鎌倉幕府の執権(しっけん)が、新しい宗教である禅宗(ぜんしゅう)を鎌倉に呼んで、禅宗のお寺を建てた、それが建長寺でした。
● 北条時頼が禅宗の建長寺を建立
建長寺を建てるに際して、現在の鎌倉八幡宮を中心とする山之内には広い土地はない。そこで当時では鎌倉の外に当たるところに建長寺を建てたわけです。建長5年の年号からとって、建長寺という名前にしました。
当時の年号は天皇陛下の許可を得て定められたものですから、年号を使ってお寺を建てるということは、とても意味があったわけです。だから建長寺は、当時の鎌倉幕府の最高責任者である北条時頼によって、禅宗という宗派の総本山的な意味合いを持ってつくられたわけです。
お寺を建てる場合は、お金、土地を用意し、お坊さんにも来てもらいます。建てたら建てた人が生きているうちはすべてに責任を持ってお寺の運営に当たらなければならなかった。その面倒をみる、面倒をみた人を寺の檀徒(だんと)、あるいは旦那(だんな)さんと呼んだわけです。古い記録を見ますと、少ないですけど女の人でも旦那さんと呼ばれている場合があるんです。
● 仏教用語が地名や生活習慣に
旦那という言葉一つが、すばらしい意味を持っている。私たちが普段使っている言葉、やっていることのなかに、意味が分からないけれど、仏教用語だったり、歴史用語だったりするわけです。それが鎌倉という土地だけで考えても本当に多くの名字の基になったり、生活習慣の基になったりするケースが多いんです。道の名前、地名もそうですが、鎌倉時代にいろいろと歴史が展開された、その名残が現在に至っているのがたくさんあります。
例えば鎌倉で言えば十二所から始まって浄明寺、これはお寺(浄妙寺)の名前が元かもしれません。瑞泉寺のほうに行くと二階堂というのがある。二階建てのお堂があったんです。今はなくなりましたが永福寺(ようふくじ)は二階建ての大きなお堂でした。雪ノ下は、鶴岡八幡宮の裏山は大臣山と言って、寒い時期になって雪が降る、それで雪ノ下だと言われています。このように地名一つとっても、元をたどって調べていくとキリがありません。しかし興味があれば調べていただきたいと思います。鎌倉に住んでいる人も含めて、歴史ある鎌倉ですから、チャンスがあったら調べて新たな発見をしていただけたらと思います。これで私のお話は終わります。(文責・横川)
Q なぜ道の名前で○○大路とつくのか。
三浦先生 大路とか小路というのがあるんです。単純に言って、大事な道で大きな路を大路と言ってます。大路に通じるような道を小路と言ったんです。
Q 鎌倉時代は今の生活に直轄していることが多いとお話しされましたが、鎌倉時代は朝、昼、晩の三食を食べていたんですか。
三浦先生 これは鎌倉時代の食生活の問題ですが、だいたい私たちのように三回は食べていませんね。二回。それが朝、晩なのか、昼と夜なのか、食べ物研究家のなかでも意見は分かれていますけれど、回数としてはどうも二回だと理解されています。
Q なぜ幕府は滅んでしまったんですか。
三浦先生 わかりやすく言うと、幕府を支えている人たちが徐々に勢力を失って、あるいは幕府のなかで言い争ったりして、徐々に弱っていって、なくなってしまう。鎌倉の場合は、1333年に攻められて滅びました。いろんな要素はありますが、そんなふうに理解しておいてください。
Q 頼朝は先生にとってどんな人だと思いますか。
三浦先生 頼朝は初代将軍ですね。私は大変苦労した人だと思います。将軍であって勝手なことをしましたけれど、よく気配りをして、そして鎌倉幕府を打ち建てて、鎌倉の街をつくってくれた。そして鎌倉だけでは終わらない鎌倉時代という大きな歴史をつくってくれた。その最初の人だと 思っています。
Q なぜ鎌倉に幕府は開かれたんですか。
三浦先生 日本の政治の象徴的なものは京都のお公家さんでした。鎌倉はその京都のお公家さんとは全くちがう武家の、武士の街としてつくられました。そして発展しました。その武士の街をつくってくれた最初の人が頼朝で、象徴的な、と言うと理解しにくいかもしれませんが、その偉い 人、鎌倉時代、鎌倉をしっかりとつくってくれた人だというふうに思っています。(了)