2022年度子ども大学かまくら第1回授業
「鎌倉殿13人の重臣と鎌倉」
講師 谷 知子先生
フェリス女学院大学日本語日本文学科教授
2022年5月21日(土)10時~12時
鎌倉生涯学習センターホール
(授業レポート)
私は、鎌倉時代の和歌、なかでも摂政関白の家、九条家の和歌を研究しています。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場している九条兼実がその当主で、和歌に非常に熱心でした。摂政関白であることと和歌を詠むことが、どのように関係しているのか、強い関心を持っています。
今日は、その大河ドラマを題材に、和歌も織り混ぜながら、お話しさせていただきます。
大学生が制作した「鎌倉殿・人物ガイドブック」
こちらは私が担当するフェリス女学院大学文学部日本語日本文学科「中世文学ゼミナール」の学生が作成した「鎌倉殿人物ガイドブック」です。「鎌倉殿の13人」に登場する人物22人について、イラスト入りで解説しています。 鎌倉市とフェリスのウェブサイトでPDFを公開しており、どなたでもダウンロードして読んでいただけます。
このガイドブックがきっかけで、フェリスは鎌倉市と3年間の包括連携協定を締結しました。こちらが調印式の時の写真です。左側からフェリスの学長、松尾鎌倉市長、私です。
「鎌倉殿の13人」の北条義時・時政親子は、頼朝の妻政子の縁戚、三浦氏・和田氏は北条氏の縁戚、頼朝には少なくとも二人の乳母がいて、その関係者、さらに頼朝の母の縁者がいます。そうすると景時を除いて12人までは、全員男性なのですが、頼朝の妻、乳母、母の縁者、女性つながりであることがわかります。
13人以外に、大河ドラマに登場する頼朝、頼家、実朝の3人の鎌倉殿、頼朝の妻政子や、異母弟の義経と恋人の静、娘の大姫と許嫁の木曾義仲、それからフェリスのある横浜市の泉区や旭区に深い関係がある畠山重忠の人物像を取り上げました。
頼朝の命を奪わなかった梶原景時
ガイドブックの中身を少し紹介しましょう。例えば、「鎌倉殿の13人」に登場する梶原景時は、人気の義経と対立した悪人のイメージもありますが、頼朝にとっては恩人です。後の伝承もありますが、大河ドラマでも、頼朝が戦いに敗れて洞穴に隠れていたとき、当時敵方だった景時に見つけられたのに、景時は見逃しましたよね。後に、景時が頼朝の家来となったとき、頼朝は景時のことを非常に弁が立つ人間だと評価しています。
景時は、和歌とか連歌を非常に好んで詠んだ人で、頼朝が和歌を詠むきっかけになったとも言われていますね。景時は、鎌倉の梶原に住んでいたことから、梶原景時と名乗るようになったとされていて、一族のお墓は深沢小学校裏の櫓の所にあります。ただ、お墓は本当かどうかを確かめるのは難しいです。
頼朝が入る前から鎌倉は都市型の街だった
鎌倉殿とは武士の都である鎌倉の主君、キングです。つまり鎌倉の頂点に立った人が鎌倉殿で、従者が御家人です。
頼朝が鎌倉に入った当時の鎌倉はどのような土地だったのでしょうか。京都とはまったく違っていて、何もない鎌倉で頼朝が切り開いたと誤解している人が多いかもしれませんが、最近の研究では、頼朝が入る前に鎌倉はすでに都市型の街だったと考えられています。その理由の1つが4つの神社の存在です。
頼朝のお父さんの義朝は、平治の乱で殺されました。その義朝の鎌倉のお屋敷は、今の寿福寺の場所にありました。この寿福寺の場所を起点として鎌倉の道は整備されていて、ここが元々は鎌倉の中心でした。当時の人々は陰陽道という思想の影響を強く受けていて、京都も4つの神様に守られているという発想がありました。
4つの神社が源氏の屋敷を守っていた
鎌倉も、当時の首都京都と同じように稲荷神社、御霊神社、荏柄天神、八雲神社と、この4つが源氏の屋敷を守るようにして設置されていました。
御霊神社は、恨みを抱いて死んだ人の怨霊を鎮めるための神社です。この御霊信仰の対象になるのは早良親王や崇徳天皇のような、政治の中枢と深く関わった人物で、都市型であることは明らかです。
八雲神社は古事記に出てくるスサノオノミコトを祀っていて、祇園信仰です。鎌倉の八雲神社の辺りの山を祇園山と呼びますよね。
天神様も稲荷様ももちろん都市型の神社です。
この4つの神社は、頼朝が鎌倉入りする前から鎌倉を鎮護し、既に鎌倉は京都と同じように都市機能を持っていたという説が有力です。鎌倉は非常に文化的な都市としての歴史を長く持っているのですね。でも、実際に見たわけではないので(笑)、今後さらに見直されるかもしれませんね。
歴史は時代とともに見直されていく。そこが醍醐味でもあり、面白いのです。皆さんの中には、将来、和歌や歴史を研究する学者になる人がいるかもしれません。鎌倉の歴史も、さらに見直されていくかもしれないと考えると、楽しみです。
頼朝ほど有能で頭が切れる人はいない
今の清泉小学校のあたりに、大倉(蔵)幕府跡という石碑が建っています。頼朝は、この大倉の地に屋敷を構えて、侍所、後に公文所や問注所を建てました。後ろにある山が自然の要塞となり、外敵の侵入を防ぐことができたわけです。物資を運んだりするためにつくった切り通しは、鎌倉の知恵の一つだと言えます。
大河ドラマでは鎌倉殿の頼朝はなかなかの悪役ですが、歴史上、あれほど有能で頭脳の切れる人はいません。頼朝のお父さんの義朝が、平治の乱で平家に敗れて殺されたとき、頼朝も殺されるはずでした。けれども、清盛の義理のお母さんが、頼朝がかわいそうと言って命乞いをし、彼は殺されずに伊豆に流されたわけですよね。
殺されていたら、鎌倉は今どうなっていたのでしょうか。伊豆に流されて20年間、頼朝は流人生活を送ります。しかし平家を倒して天下を取る志は忘れなかったのです。
頼朝が小人数で挙兵してから、亡くなるまで、トラブル、敗戦など、困難な状況の時に、頼朝のとった行動や選択の仕方は実にすばらしい。だから、私は「ビジネス書を読むより頼朝に学べ」と言いたいです。
頼朝に挙兵を促した佐助稲荷のキツネ
ここから、ガイドブックを使って、クイズ形式でお話してゆきます。まずは、頼朝です。
鎌倉の鶴岡八幡神のお使いはハトです。日本の神様には、お稲荷さんのキツネのように、お使いの動物がセットで存在します。頼朝と言えば、八幡様でハトと思いますが、このガイドブックではキツネが頼朝の後ろに描かれています。なぜでしょうか?
答えは「佐助稲荷のキツネが頼朝を助けて挙兵させたから」です。源氏山の銭洗い弁天の近くに佐助稲荷という頼朝のゆかりの神社があります。
伝承、おとぎ話みたいなものですが、伊豆に流されていた頼朝が寝ていると、「隠れ里の稲荷」と名のる翁、おじいさんが夢枕に立って「挙兵しなさい、兵をあげなさい」と促したという話が伝わっています。
平家を追討、滅ぼした後、頼朝が、畠山重忠に命じて鎌倉中の祠を探させました。祠には、小さなお屋敷の中に神様がおられるという伝説がありました。祠を探し当て、そこに建てたのが佐助稲荷なのです。
頼朝を成功に導いたお稲荷さんは「出世稲荷」と呼ばれています。頼朝は、昔、佐殿と呼ばれていました。その佐殿を助けた神様なので、佐助稲荷と呼ばれています。頼朝を将軍に導いたのは八幡宮のお使いのハトと、佐助稲荷のお使いのキツネなのでしょうか。
歌人の頼朝、慈円と和歌を77首も交換
頼朝は武士であることは間違いないのですが、歌人でもあります。ガイドブックでは、この歌を選びました。
陸奥の いはでしのぶは えぞ知らぬ 書き尽くしてよ 壷の石文
訳すと、こうなります。
陸奥の岩手・信夫ではないが、言わないで我慢しているというのは理解できませんから、あなたの気持ちを全部、書き尽くして下さい。お手紙に恋文に書くように、その全ての気持ちを手紙に書いて送ってください。
この歌を贈った相手は慈円というお坊さんです。慈円は愚管抄という、日本で最初の歴史書を書いた知識人で、摂政関白の家の出身、偉いお防さんです。
建久6年(1195年)に、源頼朝は大勢の御家人を引き連れて、京都と奈良に出かけます。東大寺の大仏が平家によって焼き打ちにあい、その再建事業に頼朝は莫大なお金を寄進しました。その落成パーティーで知り合った慈円と、なんと77首の和歌を贈り合っています。
慈円が「私の思いをあなたに伝えることができないので、溢れる気持ちを手紙に書き尽くすことなんかできません」という歌を頼朝に送っています。宗教界の頂点に立つ西の慈円と、東のキング、将軍頼朝との歌のやり取りが、なんでラブレターみたいな歌を交わしたんだろうかと不思議です。
人心把握能力も優れていた頼朝
大河ドラマでも、挙兵する時に頼朝が一人ひとりに「お前だけが頼りじゃ」と抱きついて訴えていましたね。お屋敷を訪れた人には個室で会って「お前だけが頼りだ」と訴えたと、吾妻鏡にも書かれています。
さまざまな苦労を通して頼朝は、生き残るための知恵、人を自分の味方につけていく優れた人身操縦術を身につけたのではないでしょうか。そのような「人たらしの頼朝」の表れが、この歌のやりとりにも表れています。
頼朝の歌には掛詞が使われています。同音異義語を用いて、岩手県の「いはて」、福島県福島市の「しのぶ」、「蝦夷」、「壺のいしぶみ」です。だれでも簡単にこうは詠めません。ごちゃごちゃしているけれども、掛詞で意味をつなげながら、東北地方の地名を4つも歌に詠み込んでいます。「我こそは東北のキングである」と、日本列島の北部全域を征服したというアピールをしているかのようです。
京都の王朝文化に強い憧れ
頼朝の和歌をもう一つ紹介します。これは富士山の歌です。
道すがら 富士の煙も分かざりき 晴るるまもなき 空のけしきに
和歌の意味は、こうです。
雲がかかって富士山の煙が見分けられなかった 残念です
頼朝は、東海道の旅をしている途中に、富士山について煙か雲か判断できなかったと詠んでいます。鎌倉時代に阿仏尼という人が、子どもの頃に富士山の煙が出ていたのを見たのに、大人になって裁判で鎌倉幕府に行く時には煙が出ていなかったと十六夜日記に書いています。当時は、富士山は煙が出ていたり、出ていなかったりしていたのですね。
京都の藤原定家や後鳥羽院たちは、富士山をほとんど見たことありません。だけど富士山の和歌は山のようにあります。どうしてかと言うと、富士山の和歌や絵画などの知識なんです。だから見たことがなくても、富士山を歌に詠むことができたのですね。
頼朝が、この和歌で富士山の煙が見られなかったのが残念だと詠んでいるのは、富士山の和歌の知識によるのでしょう。彼は鎌倉に幕府をつくったけれども、京都という選択肢もあったかもしれません。室町幕府の足利将軍は京都に戻ったわけですから。頼朝の生まれが京都ということもあって、和歌を代表とする京都の王朝文化に強い憧れと敬意を持っていた人だったと思います。
二代将軍、頼家のイメージを悪くしたのは吾妻鏡
頼家は、頼朝と政子の長男で二代将軍です。はなはだ評判がよくない人物ですが、本当かなという疑問もあります。頼家が将軍となった時代に、偉大な頼朝と比べると頼りなかったことは確かかもしれません。そのため頼家を支えるために「鎌倉殿の13人」という頼朝の近親者である重臣たちのチームが出来上がったのです。
頼家の悪いイメージが強いのは、吾妻鏡によるところが大きいですね。北条氏の一族、金沢氏が編纂したと言われている吾妻鏡は、北条びいきなのです。大河ドラマもこの吾妻鏡をベースに作られているようです。
頼家は23歳の若さで伊豆の修善寺で殺されましたが、殺害の黒幕は北条氏というのが通説です。だから頼家は殺されてもしょうがなかった悪役に仕立て上げたと邪推したくなるのですね。
(休憩)
鎌倉八幡宮で三代将軍実朝を暗殺した黒幕は
源実朝は、頼朝と政子の次男で三代将軍です。ガイドブックの背景には鶴岡八幡宮が描かれています。実朝はなぜイチョウを持っているのでしょうか?二つ目の問題です。
答えは、「源実朝がこの大イチョウの下で、頼家の子どもの公暁(昔は くぎょう と呼んでいたが、最近は こうぎょう という)に暗殺されたから」です。
殺された後、公暁は「おれは親の仇をとった」と叫んだという説もあります。実行犯は、実朝にとって甥っ子に当たるわけで、悲しい出来事です。実行犯は公暁だとわかっていますが、暗殺の黒幕はいるのでしょうか?いるとすれば、誰なのでしょうか?
実朝は頼朝以上に和歌を好みました。京都で生まれ育ち、実朝は京都の貴族のお嬢さんを妻にしています。もしかしたら、そういうことも関係しているのかもしれません。
実朝は和歌を好み、和歌の先生は藤原定家でした。定家は鎌倉に行かず、いわゆる通信教育を行っていたのです。定家がその原型を作ったという百人一首の93番は源実朝の歌です。読んでみます。
世の中は 常にもがもな 渚漕ぐ海人の小舟の 綱手かなしも
この歌の解釈は、こうなります。
世の中は永遠に変わらないでほしいなあ。沿岸沿いをゆく漁師の小舟の引き綱を引いている姿の なんと愛おしいことか
舞台は鎌倉の由比ヶ浜でしょうか?鎌倉の海の漁師の営みを眺望しながら、この世が永遠だったらいいのになあって願う姿は、政治家、帝王らしい王者の風格があると私は思います。
中国に渡航しようとして失敗した実朝
実朝は、鎌倉の海から船に乗って中国に行こうとしました。北条義時と大江広元が、大反対しますが、実朝は聞き入れなかったと言われています。数百人の人夫が、由比ヶ浜で5時間かけて船を引きましたが、海に船を浮かべることはできず、大失敗しました。実朝とっては、つらい経験だったと思います。
由比ヶ浜の先にある和賀江島は、鎌倉市の東南にある築港です。船がスムーズに着岸できるように1230年に執権北条泰時の力で完成されました。由比ヶ浜とは違う荒涼とした風景です。
実朝は、こういう歌も詠んでいます。
大海の磯も とどろに寄する波 われてくだけて さけて散るかも
訳すとこうなります。
大海の磯も 轟き響けとばかり激しく打ち寄せる波は、割れて、砕けて、裂けて、しぶきをあげて飛び散っていることよ
割れて、砕けて、散る。このたたみかけるような荒々しい素朴な言葉づかいが非常に魅力的です。波が打ち寄せてバーンと散っていく様子をじっと見つめている実朝の姿が浮かんでくるような歌です。
実朝暗殺で義時を救ったのは犬神だった
二代将軍頼家の時代に、集団指導体制とも言うべき「鎌倉殿の13人」のチームが出来ました。北条氏を中心とした13人の重要な家臣グループです。
一番若い北条義時は、頼朝と出会わなければ、伊豆でのんびり暮らしていた気がします。彼の人生は、頼朝と出会ったことで大きく変わった人ですよね。
さて、問題です。ガイドブックでは義時のそばに大きな白い犬が寄り添っています。どういう関係でしょうか?
答えは「実朝が、鶴岡八幡宮で殺された時に、義時の命を犬神が助けてくれたから」です。
病気を治してくれる薬師如来という仏様を守る12種類の神将がいます。犬神様から夢のお告げを受けて、義時は鎌倉の大倉に薬師堂を建設しました。現在の覚園寺です。
暗殺の黒幕は義時かもとの噂
実朝暗殺事件は、建保7年(1219年)1月27日。雪の日でした。右大臣になったお礼参りに、実朝のお供として義時も鶴岡八幡宮に出かけました。ところが、義時は境内で急に体調を崩して、帰ります。その後、実朝と太刀持ちをしていた源仲章が、公暁に首を切られて殺されました。
吾妻鏡によると、拝賀の日、戌の時に大倉薬師堂の犬神様は、お堂の中から抜け出し、鶴岡八幡宮の義時のそばに行って、気分を悪くさせることで、危険を知らせ、家に帰らせた、そのおかげで義時は死なずに済んだというお話です。しかし、義時は、実朝暗殺に直接手を下して殺しはしていないけれども、黒幕じゃないかと昔からささやかれていました。
「江の島の水神(竜)」と北条氏
さて、次に、義時の父北条時政です。ガイドブックでは時政の背景に龍が描かれています。なぜかわかりますか?
答えは「北条氏の繁栄は水の神様の龍のお守りのおかげだった」という伝承を表現しているからです。
太平記によると、北条時政が江の島にこもって北条氏の繁盛を弁天様に祈っていたところ、水の神様が登場して、鱗を落して去っていったと言います。
水の神様は、龍の姿で現れることが多いのですね。だから神社の入り口の手洗いの場所の水栓は、よく竜や蛇の形をしています。北条氏の紋ミツウロコ紋は、龍が落としていったうろこに由来しています。
「鎌倉殿の13人」は大半が政子の血縁関係
「鎌倉殿の13人」ですが、大半が頼朝の妻・乳母・母の血縁関係で結ばれています。北条義時、時政親子は、頼朝の妻北条政子の弟と父親ですから、頼朝の妻の家族です。三浦義澄と和田義盛は、北条氏の親類です。7人が頼朝の妻の政子の家族と親類。
安達盛長と比企能員は、頼朝の乳母 比企の尼の関係です。乳母は「育ての親」ですが、たいへん深い関係で、子どもに対して絶大なる発言権も持ちます。
文士である4人も、中原親能は、頼朝と政子の娘の乳母のお父さんです。大江広元は、その親能の義兄弟です。二階堂行政(鎌倉の地名の二階堂は、行政のお屋敷があった所)は、頼朝の母方の熱田神宮の親族です。三善康信は頼朝の乳母の甥っ子になります。
武士である3人も、八田知家は頼朝の寒川尼という乳母のお兄さんで、足立遠元は安達盛長の甥っ子ですから、比企の尼の親族です。そうすると、梶原景時以外は、頼朝の妻、母それと2人の乳母の家族親族で占められることになるわけです。面白い構図です。
「何事も女性が最終決定する」と愚管抄に
頼朝と関わる女性の筆頭は、妻の北条政子です。頼朝の妻で頼家、実朝、大姫のお母さんにあたる政子は、頼朝が亡くなった後、鎌倉幕府の軍事、政治の最高権力者として、大きな権限を握り、尼将軍と言われていました。
慈円の愚管抄という書物に「女人入眼の日本国」ということばが2回ほど出てきます。この頃の日本は女性が「入眼」を行う国だって言っているのです。入眼というのは、目を入れることです。今でも選挙で当選が決まったら、だるまの目に墨で黒く入れると同じで、最後に決定する、完成させるという意味です。日本は、女性が最終決定をする国だと言っているのです。
昔の時代は女性には発言権がなさそうに見えますが、実はそうではありません。「鎌倉殿の13人」の12人までが頼朝の女性の縁で出来上がっていますし、東の北条政子、西の朝廷には、後鳥羽院の乳母、卿二位が大きな力を持っていました。東の北条政子、西の卿二位が会談をして、次の将軍を誰にするかという重大事を決めていたと言われています。
「義経が恋しい」と舞を舞う静御前
頼朝の異母弟の義経は、大河ドラマでは今追い詰められていて、見ていて辛いですね。義経は歴史上の人物のなかで、もっとも舞台や映画、小説に描かれたヒーローかもしれません。そして義経の恋人だった静御前は、白拍子と呼ばれる男装の芸能者です。烏帽子をかぶって歌ったり舞ったりします。今で言えば宝塚歌劇の男役をイメージしてください。この静御前が捕まって鎌倉に連れてこられ、鶴岡八幡宮の舞殿で頼朝と政子の前で「義経が恋しい」と歌いながら舞を舞ったという伝承があります。それが、この歌です。
しづやしづしづの をだまき繰り返し 昔を今になすよしもがな
頼朝夫妻の前で義経への恋心を告白したと言われている歌です。「しづ」は静の名前であると同時に、楮とか麻の糸のことで染めて織ったものです。オダマキは糸巻きのことです。繰り返しを導く言葉ですね。今は、結婚式も行われていて、若宮回廊とも言われている舞殿です。
私の話は以上です。ご静聴ありがとうございました。
◇ 質問コーナー ◇
5年生 織田信長と源頼朝って一度、会ったことあるんですか。
谷先生 織田信長は戦国時代なので、頼朝とは会ったことはないのですけど、そう聞いてみたい気持ちはよくわかります。2人は、強い変化の中、勝ち抜いていくイメージがあります。信長と頼朝が、会ったら、どんなことになるのか想像すると、怖いような、面白いような気がします
6年生 頼朝は関東などを治めていたかと思うんですけど、九州はどうなっていたんですか?
谷先生 九州は、今大河ドラマでは頼朝の義理の弟範頼が征服しているところですよね。九州の北の方は平家から奪い取って源氏の管轄になっていたと思います。
6年生 本の豆知識みたいなので義経は出っ歯で背が小さかったって書いてあるんですけど、それはイケメンなのか、どっちか分かりますか?
谷先生 唯一、義経の容貌を書いている書物に、前歯が出っ歯だったと書いてあるんです。テレビ番組で復元していましたね。すごく小柄だったようですが、今描かれるほどには美男じゃなかったかもしれません。
清盛は大変な美男だったと思います。それから、頼朝もたぶん美男だったのではないかと。あの頃の武士は芸能人でもあり、頂点に立つためには容貌も大事だったはず。だけど、顔立ちよりは、全体を遠くから見た感じ、舞台で映えるような感じの美しさだと思います。
5年生 源氏の血をひいている人、子孫で織田信長の時代でいますか?
谷先生 源氏の子孫は、すぐにこの人と言えないですが、大勢います。
源頼朝の血筋は実朝で絶えるのですが、別の血筋の源氏も数多くいて、戦国武将として活躍します。その中には、徳川家康のように、血筋は受け継いでいないのに、源氏を名乗った武将もいましたが、血筋を受け継ぐ子孫としては、有名な武将で言いますと、今川、三好、武田、佐竹、細川、山名、黒田などがほぼ確実と考えられています。
(文責=菊池みどり、写真=島村國治)
◇ 授業アンケートで出された質問にお答えします ◇
Q質問 小学生でも読めそうな和歌の本があれば教えてください
谷先生 『百人一首』の解説本で、和歌全体の解説も豊富に書かれている、谷知子『百人一首の解剖図鑑』(エクスナレッジ)はおすすめです。日本史の知識も増えますよ。少し難しいかもしれないですが、和歌の入門書としては、谷知子『和歌文学の基礎知識』(角川選書)もおすすめです。
Q質問 源義経が戦国時代に生まれてたら、織田信長とどちらが強いですか。
谷先生 私は義経だと思います!根拠はないのですが(笑)
Q質問 先生が、好きな武士は、誰ですか?
谷先生 断然、源頼朝です。
Q質問 寿福寺の近くに住んでいます。 寿福寺のおつかいの動物がいたら教えてください。
谷先生 ごめんなさい、はっきりとはわからないのですが、特にいないのではないでしょうか。
Q質問 鎌倉で、鎌倉時代や13人にちなんだ地名を教えてほしいです。
谷先生 二階堂、梶原、和田、三浦などでしょうか。
Q質問 頼家の和歌を見てみたいです。
谷先生 和歌の事績はほとんどありません。ただ、江戸時代初期に制作された『武家百人一首』(姫路城主榊原忠次編)には、頼家の伝承歌が収められています。頼家が実際詠んだのではないと思います。
夜もすがらたたく水鶏の天の戸を開けて後こそ音せざりけれ
(一晩中戸をたたくように鳴いている水鶏も、夜が明けた後は音をたてないことだなあ)
♡ 谷先生ありがとうございました ♡