「歴史と地形 なぜ頼朝は鎌倉に幕府を」
講師 竹村 公太郎先生
リバーフロント研究所参与、NPO日本水フォーラム事務局長
7月16日午前10時から鎌倉生涯学習センターホール
(授業リポート)
地形から見た日本の歴史
歴史は、過去の出来事にさまざまな角度から光を当てて、どのようにして日本人は生まれてきたかを探(さぐ)る作業です。これまで数多くの歴史学者や哲学(てつがく)者、作家、美術家などが光を当ててきました。しかし土木のエンジニアで、宮ケ瀬(みやがせ)ダムの所長だった私は、だれも光を当ててこなかった場所が一つだけあったことに気が付いた。つまり過去の出来事をコップとすれば、そのコップが乗っかっている土台、地形に光を当てて私は歴史を考えてみたのです。
だから徳川家康(とくがわいえやす)がだれと戦って勝ったとかの人間模様(もよう)ではなく、地形から歴史を考える。その結果、おもしろいことが分かってきました。今日は、学校でも教わらないし、これからも教わらないだろう話をします。
源頼朝(みなもとのよりとも)が何を怖(こわ)がっていたのか
鎌倉は日本の歴史のなかでも、なぞに満ちた不思議な町です。地形的に三つのナゾがある。一つは、昔の鎌倉は日本の一番はずれだった。世界史では交通の大動脈から外れた場所に都はありません。
ナゾの二つ目。都としては、あまりにも場所が狭(せま)すぎる。奈良の平城京(へいじょうきょう)、そして1千年も続いた京都の平安京はものすごく広い大地で、人口も鎌倉の3万から5万をはるかに超(こ)える10万から20万人が住んでいました。
ところが鎌倉は三方を山で囲まれ、狭い切り通しを通らないと鎌倉に入ることができない。地形的に見ると、頼朝は何かを怖がって、狭い鎌倉に閉(と)じこもっていたとしか考えられない。何を怖がっていたのか。
道や情報はすべて平安京に
権力(けんりょく)者は前の権力者の行動、考え方をよく観察して、参考にしています。頼朝は平安京と、初めて貴族(きぞく)から武士に権力が移行した平清盛(たいらのきよもり)の行動を観察していた。何を参考にしたかを地形的に考えてみます。
1千年も都だった京都は、当時の日本列島にある主な街道はすべて放射線状(ほうしゃせんじょう)に京都に集中する仕組みになっている。そんな都は世界にありません。だから京都にいると世界や日本の情報がすべて集まってくる。しかも全国から人が集まってきたため人口が密集(みっしゅう)したのです。人口が密集するとどうなるか。
疫病(えきびょう)で悲惨(ひさん)な状態の京都
桓武(かんむ)天皇が奈良から京都に都を移したのが794年。その70年後に祇園祭(ぎおんまつり)が始まっています。華(はな)やかな祇園祭は実は疫病祓(ばらい)のお祭りでした。鴨長明(かものちょうめい)の「方丈記(ほうじょうき)」には1181~2年の飢饉(ききん)の直後に疫病が重なり4万人が死んだと記されている。人口が20万人とすると、5人に1人が死んでいる。なぜか。当時の京都はトイレがなく、大小便はたれ流しのため、衛生状態が悪く、赤痢(せきり)などの伝染(でんせん)病はすぐに広まり、疫病による死者が増大した悲惨な都だったのです。
神戸に遷都(せんと)を考えた平清盛
その悲惨(ひさん)な状況を体験した武士の平清盛は、保元の乱(らん)で太政(だじょう)大臣になり、京都から60キロ離(はな)れた神戸に遷都を始めるんです。都市整備が順調に進めば「福原幕府(ふくはらばくふ)」ができるはずでした。しかし2年後に源頼朝に攻(せ)め込まれ焼失してしまった。そのため今は神戸に何も残っていません。
頼朝は「湘南(しょうなん)ボーイ」
私は土木のエンジニアだから平清盛は神戸の坂の多い場所に都を造りたかったと推測(すいそく)します。遷都の理由は伝統や慣習に縛(しば)られない政治を、などいろいろあるけれど、最大の理由は地形学的に神戸には海があり、坂が急で雨が降れば汚物(おぶつ)が海に流れる利点に着目したのです。それを見ていたのが頼朝でした。
源頼朝は14歳の時に戦いに敗れて伊豆に流され、34歳まで青春時代を過ごしました。きれいな海、温泉に入り、おいしいものを食べ、恋もした、いわゆる石原裕次郎のような「湘南ボーイ」だったと思います。
疫病と流人の流入を恐れた頼朝
その頼朝が恐れたのは平家だと言う歴史家もいますが、私は違(ちが)うと断言します。きれいな伊豆で青春時代を送った頼朝が一番恐れたのはウンコだらけの汚(きたな)い京都ではやる疫病、そして流人(るにん)だったんです。
切通しは敵を食い止めるのではなく、都に行けば食べられると全国から集ってくる仕事のない流人を入れさせない、人口を増やさない役割(やくわり)をはたしたと思います。そのお手本は平清盛が取り組んだが失敗した京都から神戸への遷都だったのです。
鎌倉幕府が実現した生態系(せいたいけい)の循環(じゅんかん)
平清盛が神戸の福原遷都で考えたのは人間と生物の循環です。人間の排泄(はいせつ)物を海に流し、バクテリアをプランクトンが食べ、それを魚が食べ、その魚を鳥が食べ、最後は人間が食べるという生態系の循環が海のある神戸ではできる。それを頼朝は鎌倉で実現した。それが江戸へ引き継(つ)がれている。
江戸時代は人口が増えすぎたので、ウンチやオシッコの排泄物の再利用を考えた。排泄物を集めて畑の肥料として再利用する。日本人のすごいところです。
ヨーロッパ人は排泄物を窓(まど)から道路に放り投げた。道路はウンチだらけでくさい、女性のスカートは汚れる。それでハイヒールができたんです。
鎌倉は情報と交通の中継(ちゅうけい)地
鎌倉は日本のはしっこにあると最初に言いましたが、今から6千年前の縄文(じょうもん)時代は海の高さが今より5メートルも高かった。つまり関東や鎌倉は海に沈(しず)んでいた。しかしだんだん現在のようになってきたけれど、鎌倉時代に東京周辺は大湿地(しっち)帯で、人間は入れない。そこで関西から東北に行くためには、小田原から鎌倉、そして横須賀に出て千葉に船で渡(わた)る。つまり西と東をつなぐ大動脈の中継点が鎌倉で、情報の集積地だったのです。しかも海があり、三方が山なので、流人を入れなければ、きれいな都ができると頼朝は考えたのです。
緑豊かな大湿地帯に江戸幕府を建てた家康
徳川家康は、なぜ情報が集まらない湿地帯の江戸に幕府を建てたのでしょうか。今では考えられないことですが、戦国時代は関西から関東の山々の木はほとんど伐採(ばっさい)されてはげ山になっていた。家康は、人間の手が入っていない緑豊かな利根川にある江戸に目をつけ、幕府を建てたのです。
当時、エネルギーは木しかなかった。家、農機具、船などの材料も木だったので、人間が住む地域の周辺の山々はみんなハゲ山でした。唯一(ゆいいつ)、緑の木々が残っていたのが利根川一帯だったのです。以上が土木屋のエンジニアが地形から考えた日本の歴史です。
(文責・横川和夫、写真・島村國治)